** [淡窓 先生]シリーズNO.8



 その夏,アリさんは,乳母ひとりをつれて,船で都にのぼりました.

豪潮律師のお手紙で,菱屋源兵衛 の宿につきました.都ははや秋風です.

やがて風早局に見えますと,大そうお気に入るり,[かねての願いがかなって,こんなう れしいことはございません,今日からは,わらわの妹になってたもれ.名も秋子と買いて 秋子(ときこ)とな.]と,よろこんで下さいました.そして,乳母には,[お国に帰っ たら,心配いらぬと申してたも.]といいました.

それを聞いた家の人たちは,[よかった,よかった]と喜びました.けのども求馬さんは ,[十九の春]をすてにいった妹が,いじらしくてなりませんでした.

[お兄さま,どうぞお元気にね]遠い都の空から,やさしく聞こえます.そう思っては, 今日も求馬さんは歩きました.

[元気にならいですむものか]花月川の水はすみ,慈眼山(じげんざん)の紅葉をうつし ています.[求馬さん,よくなったですなあ血色が][は,おかげさまで][大事にして 下さいよ,学問の英(えら)もんというじゃありませんか.]野らで働く人たちからもは げまされました.

 けれども,求馬さんは,ふと,何とはなしに,楽しめないものを感じました.

病気はよくなったというものの,気がついてみれば,はや男二十三.[己は,何をもって 身を立てよう.]それがひそかな悩みとなりました.

[父のあとは,つげようもなし,学問への志しは達せられず,あああ]と月の夜を,ひと り悩みます.

[今どき,学問で食えるか,医者だ.医者なら,医術さえうまければ,裕福にも暮らせる .学問したけりゃ,そのひまにやれ.]とまくしたてた藤左仲のことば. けれども医術は,おいそれとできるものではありません.

[ぼくは今,難波(おおさか)でうまくやってる.全快したら,君もぜひ出て来たまえ. ]との便りもありました.

けれども,故郷をはなれての遊学は,とても身体がゆるしません.[今さらだめだ] と求馬さんは,嘆息するのでした.

[せめて眼科の医者なら]と思っている時,幸い日田に,眼科の鮫坂右京が来ました.

求馬さんは,とびたつ思いで,宿をたずね,辞(ことば)を低くして頼みました.右京は ,[医術は,一子相伝(わが子だけに伝えるもの)のもの,他人に伝えることは許されて ないが,君は天下の秀才だ.よろしい,教えてあげよう.]と言って,書物までかしてく れました.[ああ,これで身は立つぞ]と喜びましたが,その後,右京は筑前に帰ったき り,何のたよりもありません.その約束は,ホゴになってしまいました.

子日(しのたまわく)[学んで思わざれば則ちくらく,思うて学ばざれば則ちあやうし]

そのころ,気まぐれに教えていた,子供たちの素読(よむだけ)の声です.

それを聞くにつけても求馬さんは,[身立たずして,何の学ぞ,あああ]と,ため息をつ くのでした.そして,[おい,やめだ,帰れ]と叱りつけました.子供たちは,[どうし て,又,気分でも悪いの]とあっけにとられました.

[何でもいいから,早く帰れ.]と追いかえしました.

ひとりになると,求馬さんは,いらいらした自分がなおさら淋しく,[秋子(ときこ)す まないなあ]と,はるかな都の空にわびるのでした.

[お母さま,ぼくはいよいよだめです.][だめならだめで,いいじゃありませんか.お 父さまにも,ちゃんとお考えのあること,そうあせるもんじゃありません....ね,病 は気からといいますよ.たっしゃにさえなってくれたら,あなたの天分も伸ばすことがで きるじゃありませんか.]となぐさめてくれます.

けれどもその天分を伸ばすには,この田舎ではだめだ.日田はじまってこの方,学問教育 をもって,身をたてたものは一人もいない.

求馬さんの悩みも,そこにはじまっているのです.

[女はだめだ,男の悩みはわからない]求馬さんは,お母さんになぐさめられることが, 腹立たしくなりました.

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