** [淡窓 先生]シリーズNO.9 ちょうどその冬,かっての倉重湊が来ました.[そうだ,この先生に]と求馬さんは, 悩みのたけを手紙に書き,湊のもとにうったえました. けれども返事がありません.待くたびれた求馬さんは,湊の宿をたずねました. [先生,ごらん下さったでしょうか.][おう,見らいでか,この通り.]といって,手 紙を懐から出すやいなや,ズタズタに引き裂き,[バカ!]といって,それを地になげつ けました.[身分を知らぬにも程がある.君の立つべき道は,はじめから決まっている. ][えっ][学をもって立つのだ][でも,この日田では][なに,日田では道が立たぬ ?バカな,誰が決めたか.いや,道も立つまい,せっかく習いに来た者を,気分がどうじ ゃと追いかえす.そんなぐうたら教授では,たとえ江戸のまん中でも,道のひらけようは ずはない. そもそも医は仁術.人の命を助ける尊いものだ.それに何ぞや,生計のために医者になろ うなどとは,もしこの倉重が,さような性根で治療にあたっていたならば,君の命は,は やあの時になかったはず.][は,はい][迷うな!学問教育は汝の使命][はい][も し,それで身が立たぬなら,かつれて死ぬまでじゃ!][はい,わかりました!]求馬さ んは,涙をもってひれふしました. からりと晴れた二十四の元旦.久しぶりに生命のいぶきを感じた求馬さんは,弥生三月 十六日,豆田の長福寺を学寮として,身をもって,教育の門をひらきました. つきしたがう者,わずかに二人.諌山安民,に館林伊織です. これではならぬと倉重湊は,有志の家をかけめぐり,その子供たちの入学をすすめました .おいおい集まってきたものは,三松寛右衛門の子,寛次 俵屋藤四郎の子,幸六 諌山元瑞の子,登 五馬村 恵賞寺の子,尭立 その他,田島蘭秀,河南大路, 村上俊民,そして倉重湊が子の文哉でした.求馬さんは,弟正蔵も加えて,長福寺の学寮 にとまりこみ,独立独歩,教育をもって身を立てることになりました. {ほととぎす鳴く 春の暮れ 雨はかすかに 燈(ともしび)はのこる} その燈のもとに求馬さんは,[秋子(ときこ),学寮の夜ふけは,靜でいいものだよ]と ,ささやくのでした.そして[正月元旦,宮中のおん儀式に,お局さまに代わってつかえ ,ま近に天顔(天皇のおん顔)を拝し,おそれおおいやらありがたいやら]とあった.秋 子さんからの便りを思いうかべました. あの時は,皆[家のほまれだ][郷土のほこりだ]などといって,喜びあったものだった が,[秋子も幸福でよかったなあ]と,求馬さんは,古寺の夜をひとり,いとしい妹の身 の上をしのぶのでした. ところが,その夏の暮れでした.京の都から,思いもかけぬ飛脚(ゆうびん)が着きま した.菱屋源兵衛からの便りです.[はて]とひらいてみますと,[やや,秋子重病] [えつ!秋子が,まあ,ど,どうして] {風早の局さま,卯月の頃より熱病にかかり,日ましに重くなるばかりでしたが,秋子さ まひっしの看病もむなしく,真夏の夕べ,この世の命をはてられました. 今はこれまでと,秋子さまは黒髪を切って尼となり,慈等と名のられて,泣く泣くおんと むらい,野辺の送りをすまされ,いたわしくも源兵衛が宿にもどりました. と,その夜 から,どっと病のとこにつき,私ども,あれやこれやのひまもなく,はや重態となられま した.}と,まるで寝耳に水のしらせです. [まあ,秋子(ときこ)が]と驚くひまもなく,又続いての飛脚です. とる手おそしと ひらいてみれば,ああ秋子さん,死のしらせでありました. [あっ,死んだ] [秋子が死んだ,あの秋子が,ああ] と身もだえした祖母さんは,そのままその場に気を失ってしまいました. 夢にも知らぬ危篤と死のしらせを,一刻(いちどき)に受けた受けた肉身の,泣くに泣 かれぬはげしい悲しみでした. {秋子さま病にたおれて十日目,源兵衛が宿にて息をひきとりました. 難波から藤左仲もかけつけ介抱につとめてくれましたが,何を申してもはげしい熱病のこ と,手当のかいもありませず,はやおん悔やみの申しようも無之候(これなくそうろう) }と,神田政人からの便りでありました. ああ,七月の十七日,秋子さんは,入会いの鐘の音とともに,風早局の君のおんあとを慕 ったのでした. [秋子,ゆるしておくれ,さぞつらかったであろうのう.まつごの水もぬらずして,都の 空にただひとり...]と泣きくずれるお母さん.こらえて忍び泣きすお父さんでした. [思へばそなたが生まれた時,産湯をつかわせてだきあげたのは,あいにく泊まりあわせ ていた尼さんでした.{よい子じゃ,よい子じゃ}とその尼さんは,そなたにほほずりし てござったが,み仏さまのはからいか.とうとうそなたは尼さんにならっしゃったのう] それから,それとお母さんは,いとしい秋子さんの思い出につきぬ涙にくれるのでした. [お兄さま,会いたかったわ,ひと目でもいい,元気なお顔が見たかったの.] いまわの際の秋子さんが,求馬さんには思われてなりません. [おう,この兄も,どれほど会いたかったことか.体のこともうちわすれ,近江の彦根に 召されることにしてあったのも,ただそなたに会いたいばっかりだったのだ. それなの に秋子,とうとう兄の身代りに,なってしまったなあ...,ああ,秋子,ゆるしておく れ.]求馬さんは,そのいとしさに,悲しみ骨身を通したといいます. 後,淡窓先生は,秋子さんの徳をたたえて,[孝弟烈女(こうていれつじょ)]と碑を立 てました.親の悲しみ見るにしのびずと,大願を立てた孝.兄の身代りとなって,尼さん となった誠心を弟.そして風早の君につかえては,病を同じくし,死も又同じくしたその 忠烈.ああ,まさに孝弟烈女. そして先生は,[我が子孫のものよ,永久(とこしえ)に,秋子の霊をまつれよ]と,長 い追悼(くやみ)の詩をつくりました. かの豪潮律師は,仏にちかった,まことをほめて,[慈等誠誓戎珠沙彌尼(じとうせいせ いかいしゅみに)]とおくり名しました. 秋子さんのその墓は,今も大超寺にしづまってあります. 広瀬淡窓物語の表紙に戻る。 元に戻る。 |