ゆとり
ここの所の、冷え込みで紅葉も良い具合に進んだという情報で、
「よし、今年こそは紅葉狩りだ!」と、先日友達と行って来ました。
幸いに、好天に恵まれたこともあってか、すごい人出。
どこもここも、超満員、押し合いへし合い、長蛇の列。
茶店のおばさんも、お土産を買いあさるお客さんも目が血走っています。
(ちと、オーバーかな)。
結局、美しい紅葉をみて、美味しいものでも食べて、ゆっくり過ごしたい
という私たちの望みはパーとなりました。
しかし、そこは抜け目が無い私のこと、しっかり「行った」という証拠写真
は撮ってきて「もみじ狩りに行ったの」なんてね・・メールを出して自慢
しました。
そのなかのひとりの友人が「そう言えば、最近紅葉とか、自然の美しさに
触れる機会が隋分と少なくなったような気がします。心に余裕のなくなった
せいか、はたまた日々の生活に追われているせいかもしれません。」
なんていうメールをくれました。

おい、おい、私だって心に余裕なんてないよ。
自慢じゃないけど、紅葉みているあいだだって昼はどこで食べようかとか
お土産はなんにしようかなんてそんなことばかり考えていましたから。
美しいものに素直に感動するとか、喜ぶとかそんな事忘れてしまっていた
気がしてきました。紅葉も「あーきれい」、「じゃあ、次は?」で移動開始。
じーっとたたずんで、ものを思うなーんて、とても、とても。
毎年、見に行こうと思ってもなかなか行けなかったのですから
じっくり、ゆっくり楽しんでくればよかったと、反省しています。
この「余裕」「ゆとり」のなさって、私の個人的な性格の問題だけかなー?

ところで、よく「余裕がある」とか「ゆとりのがある」なんて言いますが、余裕、
ゆとりって何なのでしょうね。
多分、ぎりぎりじゃあない事なのでしょう。心が満たされているってことで
しょう。
でもね、それだったら、わたしなんて余裕、ゆとりがあるなんていえませんよね。
少ない時間をやりくりして、目いっぱい楽しもうなんて欲張ったことを考えて、
あちこち走り回ったのですから。

戦後、日本は貧しさから物質的な「ゆとり」を求めて合理主義や物質主義に突っ走り、
ここに来て望んでいた「もの」があふれる「ゆとり」は手にしましたが、
「心のゆとり」はそれに反比例してなくなっているような気がするのです。
今盛んに「心の時代」「心の豊かさ」なんて言っていますが、それさえもただ、
がむしゃらにつかもうと、奔走している感じです。
どうしたら、心が満たされ、「余裕」「ゆとり」が生まれるものなのでしょうかね--

心の「余裕」「ゆとり」これっていわゆる「執着」や「未練」を断ち切ったときに
生まれるものかもしれません。あれもしたい、これもしたいと考えていたら
持てないものなのかも知れません。
でもね、仕事一筋に生きてきた人が定年退職した後、やることがなくて、
余裕たっぷり、悠悠自適の生活どころか無気力になって、落ち込んでしまう
と言う話しを聞くでしょう、それを考えたとき「余裕」って言うのは生きがいを
もたないと生まれてはこないもので、自分が必要とされていると、
思えない限り心は満たされないのじゃないかって思うんですよ。
よく、老後を豊に過ごすために、若いうちから趣味を持ちましょう、
なんていわれますが、それさえ私には「余裕」がないのか思いつきません。
なにをしたらいいのだろうって・・・・

今の状況で私にとって「余裕」「ゆとり」って言うのは、1日の家事を済ませて、
ホット一息。「さー好きなことができるぞー」そんな感じかもしれません。
便利か、手軽か、無駄じゃないか、そればかりに重点をおいて戦後の合理主義、
物質主義、生産主義・・・そんなものの申し子みたいな生き方をしてきましたから
私の生活空間は余裕、ゆとりなんて生まれるはずありませんよね。
家事の合間に、コーヒーをゆっくりドリップで落として香りを楽しみながら
静かに飲んだり、好きな音楽を聴いたり、きれいな花を飾ったり、
日常生活の中のこんなささやかな「ゆとり」を、楽しむことにしました。

余り難しく考えずに、いろんな事やってみよう、そうしているうちに
自分がしたいことも見えてくるかもしてない。
潤いのない、ただ乾いた感じから、少し湿った感じへ・・・
年をとってきて、心に余裕がないと嘆く前に自分の生きかた、
考え方を見直すことが一番必要なのかもしれません。


思い出

きれいな紅葉も見れたし、
おいしいものは食べたし いっぱい、おしゃべりはしたし・・・・
でもいつも、いっぱいやりのこしたことあるような 感じがします。
今度来る時は○○しようとか思わないで できるときにやる!
次は無いと思っておかなきゃねー
これだからゆとりが無いなんていわれるのかなー?