70年ブルース
最近、陽水にはまっています。
「人生が二度あれば」「白い一日」「断絶」等々。
まるで陽水過多症(?)です。

若いころは、ちっとも気がつかなかったんだけど歌詞が妙に気になっちゃって
ジーンとして涙が出たりと、(老化現象で、涙腺が緩くなったせいかな)
感じ方って年齢と共にかわるんでしょうね。

1970年代、私はまじめな(?)女子大生でした。
そのころ、学生運動はちょっと行き詰まりかかっていました。
でも、私の行った大学は「闘争中」でした。
学内は、タテ看、散らかったビラ、ありとあらゆるところに糊で貼られたアジビラ、
わられたガラス、壁の落書、すざましい汚さでした。

私にとっては、体制が何かとか、自治がどうしたなんてわからないし、
学生運動なんかすると「お母さんに叱られる」なんて思う、甘ったれでした。
教養の時はちょくちょく、講義の時間がクラス討論会になり
それはそれで、嬉しくて、「休講だ!」
とばかりにコーヒーのみか、サークルの部室で暇つぶししていました。

入学して一ヶ月も過ぎてくると、同じサークルの友達もでき、集まっては
あーでもないこーでもないと、話をするようになっていました。
恋愛のことや、将来のこと、政治のこと、日本のこと・・・・いろいろです。
私はその仲間からは、ちょっと浮いていました。
友達達は私のことを、「やっぱ、理系はだめね!」って言っていました。
私の考えが幼稚だということを言っているのです。
そのことを「理系」って言うのは、変ですが(理系の方ごめんなさい)。

高校時代遊びもせず、本も読まず、何も考えず、ただ受験勉強に明け暮れた
(振りをしていた)、わたしにとって、
彼女らが使う言葉は意味がわからず、(難しい専門用語に聞こえました)
彼女らが読んだ本、見た映画、何一つ話題についていけるものがありませんでした。
劣等感とは、こういうものなのでしょう。
がむしゃらに本を読んだり、映画を見たりどうにかしてついて行きたいと、背伸びをし
少しは気の利いたことを言ってみたいと、思っていました。

友だち達は、学生運動をしていたわけではなく、今考えるとコタツを囲んで
議論のための議論を、やってたような気がします。
その当時の私たちが一番恥ずかしいって思っていたことは、問題意識も無く
過ごすことだったように思います。
私は、よく問題意識がないと批判されました。(今なら、だから何よって
開き直るのですが)

当時は反戦歌でした。「戦争を知らない子ども達」「愛する人に歌わせないで」
「虹とともに消えた恋」などが、バイトして買ったレコード・プレイアーから
流れていました。
8・6の日「原爆を許すまじ」って言う歌を知らないってことも「恥」だと
言われました。
町には、「歌声喫茶」があり、行くとロシア民謡などを歌ってくれました。
「仕事の歌」「郵便馬車の御者だったころ」「カチューシャ」etc。
熱気に包まれ、一緒に歌うと心が奮い立ちました。

拓郎が、「♪浴衣の君はー」って歌い、「陽水」「かぐやひめ」は切ない恋の
歌を歌い、私達の卒業も間近になりました。
友達が買ったレコードをみんなでしんみり聞きながら、それぞれの道を考えていました。
そのころは、学生運動も収まっていました。

今までは、問題意識の無いのは恥だとばかり、ある振りでもしないと肩身が
狭かったのに、友だちとの話題の中心は、だんだん恋愛が主になっていきました。
「沖縄」も返還されたし、「ベトナム」は遠いし、目下の自分たちの問題は
「恋愛」だったのです。

当時、私はまるで「神田川」のような恋をしていました。
4畳半の部屋に住み、風呂屋、屋台のお酒、そしてただ別れる日がくるのが怖かった、
まるで歌そのものの世界でした。陽水の「断絶」をきどって、
「どうして悪いのだ、愛していることが、いつでもそばにいて愛している事が」
そうやって、大人たちに反抗しているつもりでした。

「陽水」「かぐやひめ」、どうして切ない恋の歌ばかりなのでしょう。
(今考えると失恋や、片思いの歌が多いような気がしますね)

今、あのころの曲を聞くと懐かしさで涙が出ます。
曲と一緒に、裸電球の明かり、友の顔、下宿の部屋、あのころ喧々諤々しゃべって
いたことまで思い出します。
あーあ、みんな、どうしてるかなー、年を取ったろうなー
会いたいなー、
そんなことを陽水を聞きながらおもっています。





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