M氏の原稿


私のふるさと

1.大分県日田市

私のふるさとは、九州・大分県日田市です。日田は、九州北部のほぼ中央に位置し、江戸
時代に九州を統括した、幕府の西国郡代が置かれ、天領として栄えた土地でした。日田は
周囲を山で囲まれ、古い街なみが残っているため、九州の小京都と称されています。また
九州最大の河川である、筑後川の発する水の豊かな土地であるため、水郷としても知られ
ています。私は、この日田で高校卒業まで育ちました。私は、伝統のある山紫水明の地を
ふるさとに持つことを、とても誇りに思っています。また、年に数回のふるさとへの帰省
を今でも楽しみにしています。

2.日・月・星と三隈川

日田盆地の中には、三つの小高い丘があります、これらの丘は、”隈”と称されています。
三つの丘には、”日”・”月”・”星”の名前が与えられ、それぞれを、”日隈”・
”月隈”・”星隈”と称しています。市内を流れる川は、”三隈川”と名付けられています。
また、市内にはこの”三隈”に由来した地名・施設名が数多くあります。
私が日田で暮らしていた頃は、こうした名称に、何の違和感も持たずに過ごしていました。
しかし、東京で、街づくりの仕事にかかわるようになり、この”三隈”のネーミングをとても
不思議に思うようになりました。飛鳥の大和三山に比すようなロケーション設定と、
日・月・星のネーミングには、ロマンを感じます。いったい、いつの時代に、だれが、
三隈と名付けたか。私は、この疑問を解明しようと思いました。
日田への帰省の折に、市立図書館を訪ね、司書の方に三隈由来に関する本を求めました。
司書が本棚から取り出した本には、”三隈妙”というタイトルが付いていました。三隈妙に
は三隈の由来について、こう述べられています。
『豊後風土記に曰く、景行天皇が球磨贈を征伐し、凱旋の時、比の郡に幸す、神あり久津媛と
伝い、化して人となり、国の有様を弁申す。この国は、衆山四面を環り、中に大湖あり、
洋々として水湛える。
適ま鷹あり、東より飛び来たりて湖上を回翔し、北に向うて去る。俄然地震
鳴動し、西岸崩裂、傾き涸渇して平野となる。余す処三岡鼎立す、水痕只一帯の川を留む、
其の南岡を日の隈とし、北を月の隈とし、西を星の隈とす。其の川流を名付けて三隈と称し、
国を日鷹と名く。云々。』なんと、三隈の由来は景行天皇にまで遡り、伝承に彩られているよ
うでした。

3.天領日田に集う会

日田の私の実家には、高齢の両親が2人だけで住んでいます。
子供たちが小さい頃は、妻と子供3人で、お正月やお盆に帰省するのが毎年の恒例でした。
特に、夏の帰省は、ふるさとのおじいちゃんやおばあちゃんのもとで、子供達にふるさとの
事前や風土に接しさせるのが目的でした。しかし、子供たちの中学・高校進学に伴い、
夏のクラブ活動、野外活動、塾の夏期講座と重なり、子供との一緒の帰省もだんだん希となって
来ました。そのため、近年では、私一人での帰省が多くなって来ました。わたしは、
日田から東京に戻る飛行機の中で、ぼんやりと、”わたしとふるさととの関係”について
考えるようになりました。家族一緒にふるさとへ帰省するというパターンが終了し、
わたし一人での帰省は、帰省の目的がだんだん不明瞭になってきました。
私が日田に帰省して会うのは、両親と高校時代の友人数人でしかありません。
私は、日田での、人とのコミュニケーションのあり方を含めて、私とふるさとの関係について、
漠然とした不安を感じるようになりました。日田での両親と友人との接点だけでは、点としての
人間関係でしかありません。
点としての人間関係は、時間と共に、いずれは消滅していく関係ではないかという不安でした。
このことは、都市と地方の人々が、共に影響しあうという交流社会の概念とはほど遠いものでした。
私がこんな思いを持っていた頃、ふるさとの友人から、”天領日田に集う会”に是非、
一度参加するようにと勧められました。
”天領日田に集う会”は日田出身の高名な漢学者の子孫の方の帰省に合わせて、年一回、
お盆の次の土曜日に、一泊を前提として開催されます。大分県の職員の方が事務局をしていて、
大分県内各地の公共的施設を会場にして、毎年、50人近くが集います。私にとって以外だったのは、
日田に縁のない人の方が多く、九州各地や、東京、沖縄からも参加があります。
職業も多岐に及び、高齢の方から大学生まで、時には、高校生や親子での参加もあります。
当日の午後3時ごろに集合し、毎年、異なる講師を向かえ、車座で講演を聴いたあとに講師共々、
夜は酒宴となります。翌日、朝食後、記念撮影をして、淡々とわかれていくという不思議な会です。
今年で会も14回目を数え、毎回出席の常連の人たちもいます。
また、久しぶりにぶらりと顔を出す人もいます。口コミで会の存在が伝わり、
毎年、初めての参加者の紹介もあります。
私自身は、今年で3回目の参加となりました。常連の人々とは、念に1回の再会を喜び、
共に酒を酌み交わし、地元の特産品に舌鼓を打ちます。この会を通じて、九州各地の人々と知り合いとなり、
農業実態や地方の生活実感が、私にも少しは感じられるようになりました。
地縁でも血縁でもない、新しいコミュニケーションの形が動き出しています。
私の日田への帰省も、この会の日程に合わせての帰省と鳴り、毎年、この会への参加を楽しみにしています。
私のふるさととの関係も、また、新しい展開となり始めています。

4.21世紀のふるさとへ向けて

かって、イギリスのロンドンを訪れた折に、ロンドン市内案内のガイドさんが、こう述べていました。
「ロンドンの人たちはロンドンに住んでいる事を決して埃と思っていない。本来は田園地帯に住むことが
理想であり将来はゆっくりと田舎暮らしをしたいと思っている。海外からイギリスを訪れるお客さん達も、
ロンドンだけを見て帰るのではなく、イギリスの田舎の素晴らしさをモット知って帰って欲しいと願ってる。」
このことは、私のロンドン訪問のもっとも深い印象として残っています。
イギリスと日本は、いくつかの共通点を持つ国です。共に島国であり、近代国家の形成過程や産業構造にも
共通点があります。また、総人口の約1割が首都であるロンドンや東京に、人口集中していることも同様です。
高度経済成長期の、東京郊外のニュータウン政策や、現在の大都市のリノベーション政策も、東京が
ロンドンの都市政策をなぞっている感があります。しかし、両国の国土環境の最大の違いはイギリスの田園地帯が
美しく、リタイアした人たちが田舎で再生活をする事の選択が可能な社会であります。
日本の戦後の国土建設上の失敗は、地方都市や農山村が、居住環境としての整備計画を持ちえなかったことです。
日本のふるさとである地方都市や農山村が、その固有の自然・文化・風土を生かして、より美しく、
21世紀に活力を持って飛翔すような計画論を、私達は模索していかねばなりません。