ボビンレースを友に30年
ボビンレースの歴史

16~18世紀にかけてヨーロッパの皇帝貴族の間で優雅な衣装として栄えました。
その発祥地はイタリアのベネチアともベルギーのフランドルとも言われその真意は定かではありません。
中世の肖像画には貴族がこのレースを着飾った姿をよく見かけます。
しかしその後、産業革命で安価な機械織りのレースに追われ、手工芸のレースは衰退の憂き目に会いました。この優雅で高価なレースは第二次大戦後の平和と共に優雅な趣味の手芸として蘇り、ゆとりを求める人々に愛されるようになってきました。
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白蝶貝のフレーム(アンティーク)に私のオリジナルのレースを貼り付けた扇
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ボビンレースと私
夫や家族の理解のもとに趣味の手すさびとして始めたボビンレースメーキングは、ゆとりの手ごたえを愉しんで夢と時とを一筋の糸に織り込め続けてきました。
ベルギーのレース学校(KANT CENTRUM)で学び
続けていく内に学校のディレクター、Mr Dumon
の「日本人は真似はうまいが創造性がない」と言う言葉に刺激を受け、オリジナルデザインをベルギーのレース雑誌に発表し続けました
デザインを考えそれを型に起こすには、レースを織る以上の手間と時間のかかる作業でした。
夫にパソコンの利用を勧められ、パターン(型紙)やテクニック図の制作にパソコンを導入し2000年には「パソコンでボビンレースパターンの作り方」の本を出版しました。現在もなおパターン作りとカラカラと囁くようなボビンの音に癒されながらレース制作を愉しんでいます。
ボビン(糸巻き)左5本はベルギーでよく使われている。その右2本はスペイン、右端はイギリスで使われている。
以前西日本新聞に顔写真入りで大きく紹介されていましたね、その時の切り抜きでもあればスキャナーで撮ってここに貼り付けていただくとMSGの内容もより濃いものになると思います。 by武内
だったのです
ボビンレースとの出会い
私は日田市豆田で生まれ育ちました。幼少の頃、
市からの要請で皇族の北白川永久殿下がお泊りになった折「私にも同じ位の娘がおります」とおっしゃりながら私の頭を撫でてくださったそうです。、後にそのお嬢様は現在の天皇さまのお妃候補で騒がれた北白川はつこさまのことでした。宮様はお礼にとレースの衿をくださり、それは母がビロードのワンピースに付けてくれて、私のお気に入りのお出かけ着でした。結婚して娘の幼稚園でシスターが父兄に呼びかけボビンレースの手ほどきを始めましたがそれが宮様に頂いたあのレースであることに気がついたのです。我が家にお泊りになった北白川宮殿下はその翌々年飛行機事故(お召しのマントがプロペラに巻きこまれました)でお亡くなり悲劇の宮家と言われていました。
北中時代に豆田の三才媛の一人だと聞いたことあります、確か生家は今の秋子想あたりではなかったでしょうか? by武内

いいえ、平凡なおばさんです・
日本丸の前です。現在スーパーや米屋になっている一角で、風早の宿は屋敷内で蔵があったところです。by bobbin
ボビンレースとの出会いは深い因縁があったのですね。
それにしても古い記念になる貴重な写真を立派に保存されていますね。
そう言えば若野屋に宮様がお泊りのなったことがあると聞きましたが、その時の写真なのでしょうか? by武内

丁度母屋と棟続きで檜の大広間と次の間が建ったばかりの頃で宮様お一人が広間にお泊りになり若野屋には後二人の侍従(写真)がお泊まりになりました。当時のことを覚えている方が少なくなり、事実が風化されてきているようです。
by bobbin
宮様と家族の記念写真(玄関前)
(昭和14年10月24日)
(撮影:宮川写真館)
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北白川宮殿下御用 会席膳

本題にそれますが右写真の会席膳(本膳、二の膳)を日田市に寄贈しました。
宮様ご来光の折に誂えました会席膳を娘の結納の時にでも使うようにと実家から貰って来ていましたが一度も使うことなく納戸の奥にしまい込んでいました。
いたみもなくきれいでしたので何かのお役に立つならばと寄贈を申し出ました。先日、日田市教育庁の文化財保護課の方が引き取りに来てくださいました。
何処に展示するかはまだ決まっていませんが、決まり次第お知らせ下さることになっています。
光の当たらない納戸の隅に眠っていたお膳が郷里の日田に帰って皆様のお目に触れるのを光栄に思っています。
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