近い将来、と言うよりそれは明日かも知れない !!
貴方の街を襲うかも知れない大震災に備えて、先ず心の準備が必要です。
 戦後最大の災害となった阪神・淡路大震災では、多くの消防団員が、自らも被災しているにもかかわ
らず、地震直後から消火活動や救助活動、住民の避難誘導、救援物資の搬送などの活動に従事しま
した。このとき、顔見知りの消防団員の求めに多くの住民が協力に応じ、効果的な消火活動や救助
活動が行われました。
 その日、ボランティアの募集を聞いて神戸へ・・
この日の朝も、私はいつもと同じように起きあがり、トイレへ行ったあと洗面を済ませた。一通りの“儀式”
のあと、テレビのスイッチを入れて新聞を開きながら、女房が準備したみそ汁をすすって朝食をとった。
いつもと同じように何の変哲もない私の一日が始まった。この何の変哲もない毎日の生活が、いかに
幸せだったのかと言うことを私は数日後に肌で体験することになった。
平成7年1月17日の朝、ふとテレビに目をやると、神戸地区に地震発生のテロップが流れた。「また地震
か」と思いながら私は自宅を出て仕事へ行った。店でラジオのスイッチを入れると地震のニュースがまだ
流れていた。
私がいつもと違う手順を取ったのはこれからだ。「まだ地震のニュースをやっているのか、被害が出たの
かなァ」と思いながら、私は店のテレビのスイッチを入れてソファーに腰を下ろした。
テレビには神戸の町だろうか、上空からの映像が映っていた。そこには二本の黒い煙が長く上空に延び
ていた。「火災か」。
しかし時間が経つにつれ、上空からの映像はいくつもの黒煙と、紅蓮の炎をとらえ始めた。「これはひど
いなァ」と思いながらも、私は溜まっている仕事をしながら、気になるニュースをラジオで聞いた。被害は
広がる一方だ。火災がそこら中で発生し、高速道路も横倒しになっているらしい。
私はその日の夜のニュースで、この地震の大きさと被害の大きさを知ったが、更にこの被害は増え続け
ているという。それでも全体の状況は情報不足ではっきりとしない。通信網もライフラインも寸断されて
いるのだ。
映像は徐々に現場に入り込み、阿鼻叫喚を写し始めた。
二日目の朝、私は神戸市が発表した「ボランティア募集」をラジオで聞いた。私は迷うことなく直ぐに神戸
行きを決めた。やりかけの仕事だけを大急ぎで終え、思い当たる、そして直ぐに準備可能な救助道具、
チェンソー、発電機、スコップ、ロープ、飲料水、食料、医薬品等をワゴン車に積み込んだ。準備を終え
た時はもう夜になってしまった。
三日目の朝、日田市役所総務課へ行き、神戸市役所宛の身分証明書を発行してもらったが、これが思
いの外時間がかかった。私が日田インターから高速道へ入ったのはもう昼が近い11時を過ぎ、地震発
生から三日目になっていた。
途中、山陽道の小谷サービスエリアで、車のフロント部に「災害救援車両」と大きく張り紙をした。
冬の夕暮れは早く、当時山陽道の最終であった山陽姫路東インターに着いた時はすっかり陽が沈んで
いた。インターでは神戸方面への道路が高速機動隊によって規制されており、私が市発行の身分証明
書を提示すると、警察は特別通行許可書をフロントウィンドウに貼り付けてくれた。
神戸方面行きの車両は少なく、対向車は多い。これは多分被災地からの避難車両のためだろう。
神戸が近づくにつれ、周囲の家に被害痕が目立つようになり、行き交う車両はサイレンを鳴らす救急車
や消防車、自衛隊車両が増えてくる。神戸市入り口には更に道路規制があり、許可車両以外は一切入
れない。周囲の電灯はほとんどが消えて、行き交う車両はサイレンをけたたましく鳴らす救急車両と自
衛隊車両だけの、何とも異様な暗闇の神戸市街地へ入っていった。崩壊した高速道路の脇を通り、私
は夜遅く神戸市役所に到着した。周囲は救助活動の車両や、救援物資を積んだ貨物自動車などでご
った返していた。
神戸市入り口には更に道路規制があり、許可車両以外は一切入れない。周囲の電灯はほとんどが消
えて、行き交う車両はサイレンをけたたましく鳴らす救急車両と自衛隊車両だけの、何とも異様な暗闇
の神戸市街地へ入っていった。
崩壊した高速道路の脇を通り、私は夜遅く神戸市役所に到着した。周囲は救助活動の車両や、救援物
資を積んだ貨物自動車などでごった返していた。
左から真新しい長田警察署、消防署、区役所が隣接 長田区消防署の前は陥没して段差が生じていた
 火災による被災者が最も多い長田区の遺体安置所へ・・
 取りあえず車の中で仮眠を取り、早朝、役所のボランティア受付窓口に行った。
そこで職員から市内の長田区役所へ行くようにと指示をうけた。私は直ぐに長田区役所へ行ったが、
夜が明けた神戸市内の惨状は見るに見かねる戦場のような光景であった。
大きなビルは傾き、潰れ、横転し、木造の家屋は全壊し、二階が一階を押しつぶしている。道路は至る
所で陥没し段差が生じ、裏道は家々が崩壊して道をふさいでいる。そこに火災が発生し、まだまだその
時の煙がくすぶっていた。
私が行った長田区の区役所、警察署、消防署(上記の写真)はそれぞれ隣接した真新しいビルにもか
かわらず、大きな亀裂が何カ所も走っていた。消防署と道路の継ぎ目には大きな段差が生じ、消防車
両が直ぐに出動出来なかったのではないかと思った。その時は応急的にアスファルトを盛っていたが、
こんな応急的処置は道路上でも至る所にあった。地下鉄が走っている上の道路は大きく陥没し、そこ
に車が落ち込んでいる。
私が指示を受けて入った長田区役所だが、フロアーには人が一人通られるだけの通路を空け、沢山の
被災家族が所狭しと肩を寄せ合って避難していた。私は階上の福祉課へ行き、市役所からの指示を告
げた。係員から「仕事は何でも良いですか?」と聞かれたので、私は「何でもします」と答えた。彼は「そ
れでは手薄の遺体安置所へ行って下さい。安置所は道路向かいの村野工業高校です」と教えてくれた。
私は返事をして直ぐにその村野工業高校へと向かった。
高校のグランドは自衛隊の一個中隊の車両と、彼らの野営テントで埋まっていた。私はその一角に車
を止め、安置所の窓口になっている守衛用の事務所へ行き、その部署の責任者である村上さんという
市役所の主管に合い指示を受けた。
この遺体安置所には学校の体育館が使用されていたが、二階の体育館のフロアー総てが沢山の棺で
埋め尽くされ、入り口は警察の検死官が陣取っていた。
一階のフロアーはおよそ200名の被災者が避難しており、奥の二カ所の武道場は、これも沢山の棺で
埋まっていた。勿論棺は空ではなく、すべて犠牲者が入っている。更に校舎と校舎の間の中庭のテント
の中にも、体育館に入りきれなかった犠牲者がここにも沢山眠っていた。
ここには三名ほどの役所の職員と、私たち一般のボランティアが三〜四名居るだけで、確かに手薄の
状態であった。
自衛隊車両が次々と遺体を運び込んでくる。それを二階の警察が受け取り検死をする。それを私たち
が受け取って棺に納棺する。私たちは一日に二回、この数百の棺のふたを開いて、ドライアイスの詰
め替えを行う。棺を開ければイヤでも犠牲者の姿が目に入る。安らかに眠っている犠牲者もいるが、
阿鼻叫喚に悶え苦しんで亡くなった犠牲者も多く、まともに直視出来なかった。
この長田区はこの震災で最も多く火災が発生した地区で、それだけに焼死者が最も多い。私は手を
合わせながらも目を背けてドライアイスの詰め替えを行った。中にはこれが人間なのかと言うほどに
焼け焦げている遺体もある。三日目になると、冬とはいえ遺体が臭うようになった。
簡易の受付窓口である守衛事務所には、毎日幾人もの行方不明者を捜す家族が訪れる。私たちは
それらの人たちに判明した遺体の名簿を見せる。中には探す名前を見いだせず帰っていく者もいるが、
時々その名前を見つける家族もいる。そしてその場に泣き崩れる。何とも痛ましく言葉も出ない。私は
何度もそのような悲惨な光景を見た。
あのときの光景は今でも忘れることは出来ず、こうして思い出すと今でも目頭が熱くなる。
二階の安置所には、いつ行っても一つの棺の脇に座って憔悴しているご婦人が居た。きっと棺の中
には、大切な家族が眠っているのであろう。
数日後、この安置所の主管は私たちにこう告げた。「これからは、ここの避難所にいる人たちの名簿
をむやみに見せないように」と。何故なのか、その理由はこうだ。県外からトラックで入り込んだ空き
巣が、この名簿に載っている人たちの家は留守なのだと悟り、家財道具などをごっそりと持ち去って
行くらしい。こんな事件が多発していると言う。何と言うことだ、人の不幸を逆手にとって盗みを働く、
このような惨状に於いてよくもそのような発想ができたものだ。
私がいた遺体安置所の管理窓口 長田区役所一階ロビーは避難所 体育館とその周囲には遺体の総数677体が
 通信網寸断による救援物資のあまりと不足、そして避難者の悲鳴・・
体育館一階正面の中には被災者の避難所があり、全国から沢山の救援物資が届いてくる。私は時間
が空けばそこにも行って、出来るだけ彼らの世話もするように努めた。可愛そうなのは身よりのいない
老人だった。七十歳になるだろうか一人の男性が苦しんでいる。額に手を当てるとすごい熱がある。私
は直ぐに区の職員に伝え、病院に搬送してあげた。
避難所の人たちは皆、供に苦しさに耐え、遠慮しているようであった。一人の腰の曲がった老婦人が、
私に「着替えがほしい」と言ってきた。話を聞くと、この老婦人は95歳だと言う。二人住まいだった72歳
の娘が壊れた家で腰を痛め、この避難所の一角で寝たきりになってしまっていた。九十五歳の母親が
看病をしているのだ。娘が小水を漏らし、着替えがないのだという。私は直ぐに救援物資の中から下着
を探したが、下着という類の衣類は全くない。寒いだろうからと、全国から届く衣類はそのほとんどが
上着やセーター類なのだ。これらは沢山余っている。確かに他の被災者の皆さんも、上下の肌着を欲
しがっていた。
私は直ぐに車で衣類屋を探しを始めた。どこの店も壊れるかシャッターが降りていた。それでも探した。
するとシャッターが少しだけ上がっている小さなスーパーを見つけた。私はシャッターの下から店内に入
ると、すでに数名の被災者が服を買っていた。私は中にいた店長に事情を説明して、男女200人分の
上下肌着を買った。
私が「肌着の救援物資が届きました」と言って避難所に戻ると、200着の肌着はあっと言う間に無くなっ
てしまった。勿論先ほどの老ご婦人親子には、直接タオルと数着の上下肌着を手渡した。95歳の彼女
は大変喜んでくれた。
差し入れにはこんな物まである。全国の自治体から届いたのであろうドライアイスや棺だ。これらが沢
山山積みになって余っている。おそらく救援物資を受け付けている市役所が混乱していて、何処で何
が不足して、何が余っているか把握できないのであろう。通信網が寸断されているから仕方がない。
通信網と言えば一般電話も同じだ。そのため区役所前には大きなパラボラアンテナを空に向けたNTT
が、衛星を利用した臨時電話を一般被災者用に無料で開設していた。
私たちの食事だが、朝晩は携帯したカップ麺などを食べ、昼は全国から届いた弁当などを、区役所の
四階で交代で頂いた。紙コップや割り箸には各人の名前を書いて、それを毎回使用した。なぜならそ
のような割り箸も不足しているが、第一に洗うための清潔な水が不足しているからだ。
私達がいたこの遺体安置所にも、外国からのボランティアチームが来た。彼らは遺体が腐敗しないよ
うに、特殊な不乱防止シートを持ってきており、これに総ての遺体を入れる事を警察に申し出ていた。
しかしそれを警察は拒否した。彼らは何度もシートを広げて説明していたが、あきらめて帰っていった。
彼らの母国では常識な事だろうが、日本の行政には通じない。折角の善意が、彼らには摩訶不思議
に映ったであろう。
私は時間の空いたとき、近くの商店街や火災現場をビデオに納めた。木造の家屋の多くが壊れ、そこ
に火の手が回り火災になっている。火災現場は空爆後の戦場そのものの光景だ。数日経った今も煙
がくすぶり、数十人ずつに分散した自衛隊員があちこちで焼けた瓦礫を掘り起こし、行方不明者を捜し
ている。
火災現場の焼け残った壁やトタンには、安否等の伝言や避難先の住所を書いたメモ紙が沢山張られ
ている。バラバラになった身内に連絡が取れず、こうした通信手段をあちこちで目にした。
車のラジオでは、いつも行方不明者を捜すアナウンスや、「誰々さん、連絡を下さい」と言う放送が常に
流れていた。
区役所へ近づいた火災跡 自衛隊による捜索救助作業 警察による捜索救助作業
 上下水道寸断による共同トイレは惨憺たる状態だ・・
長田警察署や消防署の前の広い道路には、沢山の自衛隊車両が並び、全国から応援に集まった沢山
の消防車両が控えている。いつもあちこちでサイレンが鳴り響き、上空は救済ヘリが飛び交い、近くの
小学校のグランドへ離発着を繰り返している。何処を見ても被災者の救助や震災の復旧に人々は動い
ている。
長田区役所の前には川があり、この周辺には全国からの沢山な消防車両が待機し、彼らのテントも張
られている。
被災者の毎日の避難生活の中で、大変なのがまだある。トイレだ。上下水道の寸断でトイレは惨憺たる
状態なのだ。この村野工業高校には実習室の一階に広い共同便所がある。小便所はともかく、大便所
には目を背けてします。
汚物の上に汚物、その上に新聞紙を広げてまた汚物。便器は山盛りにあふれ、今度はその周囲に目一
杯の汚物。足の踏み場もない。そうなると今度は大便所のドアの外に新聞紙を広げて用を足す。中には
それを大便所の中に投げ入れ、それが壁に当たって垂れ落ちる。十カ所ほどのどの大便所は、床もドア
も壁も汚物だらけだ。男の私でさえ吐きそうになって呼吸が出来ない。ここしかないトイレに、避難所の
女性にはあまりにも可愛そうだ。
区役所のトイレはいくらかマシだったが、ここも避難者でごった返しているから、時間が経てばいずれ同
じようになるだろう。
私達は一日二回の遺体管理と、遺体の搬入搬出、避難者の世話、事務所の受付などをこなし、私は
あっと言う間に期限の一週間が来た。もう帰らないと仕事が溜まって、お客さんに迷惑をかけている。
私は最後のボランティアに、誰もやろうとしないトイレの掃除をすることにした。区役所に行って一番大き
なゴミ用のポリ容器三個と、スコップを借りてきた。それを車に積んで区役所前の河原に降り、待機して
いる消防ポンプ車の力を借りて、三個のポリ容器に目一杯の水を川から汲み上げてもらった。
避難所に戻って、グランドに駐屯している自衛隊から防塵マスクをもらった。
この防塵マスクの上から更にタオルを巻いて、壮絶な汚物の臭いに耐えて掃除に取りかかった。スコッ
プで汚物を一カ所に集め、ポリ容器の水を流して床を洗った。汚物に私は何度となく戻したが、それを飲
み込みながら、およそ3時間で便所は見違えるようにきれいになった。
汚物は流すことが出来ないので、空いた二個のポリ容器にスコップで詰めた。残りの一個には再度水を
汲んできて、バケツと一緒に便所に置き、使用後はこの水を流して下さい、と各ドアに張り紙をした。
夕刻になり、私は皆さんに挨拶をして九州へ帰ることにした。しかしまだまだ不自由な被災者は助けを求
めている。私は後ろ髪を引かれる思いで、各遺体安置所の棺に手を合わせ、この村野工業高校をあと
にした。
この日までにこの安置所が取り扱った遺体の総数は、677遺体に登っていた。これらのメモは今も私の
団員手帳に残っている。
私は車で帰路につき、途中長田商店街の脇を通ったが、その古い木造の商店街のほとんどが焼落ちて
いた。家族が壊れた家の下敷きになり、助けようにも手が足りない。消防車も救急車も道路がふさがれ
て到達に時間がかかる。その内、そこここで火の手が上がる。消防車も完全に足りない。そうこうしてい
る間に炎は下敷きになっている家族に近づいてくる。そんな地獄が至るところで発生した。まさに生き地
獄であっただろう。この生の話を私は現場で聞いた。想像を絶する。
夕暮れの国道は、リュックを背負って徒歩で急いでいる人たちが長い列を作っている。すべての交通機
関が麻痺しているからだ。
阪神淡路地区の被災者達は、夫や子供、奥さんや両親など、大切な家族を亡くした人達は悪夢を背負っ
て、これから長くて辛い避難生活が待っている。
私は九州へ帰れば、五体満足な体に家族と家がある。仕事もある。何の変哲もなかった毎日の平凡な
生活が、これほど幸せだったのだと感じたことはない。だからこそ、私たちはこの様な災害に対し、何ら
かの形で被災者への協力を惜しんではならないと思う。
それから11年、私はこの惨状をドラマにした実話「ありがとう」を映画で見る機会があった。
あの時の惨状が昨日のように脳裏によみがえり、涙が止まらなかった。地震による被災は他人事では
ないのだ。だから明日に備えたい。消防団員としても。
 着の身着のままで駆けつけた消防団員や署員の手記から抜粋
長時間、余震の続く中、疲労と恐怖とも闘った。
苦い体験は多い。
私自身救出した生存者は4名。しかし既に息絶えていた死者はその5倍であった。
これが精一杯だった。
 生田消防団副団長
それにつけても、消防団の団服は
市民の皆さんに安心と信頼をあたえるものだと
つくずく思った。
 消防団団員
これらの成果は、
若い人達が人命の尊さを知り、
私たち消防団員の指示に協力し、
行動してくれた事により実現できたと思う。
この混乱の中で、若い人達の行動力の素晴らしさに、
感動冷めやらない。
 長田消防団長
特に長田消防団員は生存者救出400名近く、遺体搬出24体。
避難所への誘導、消火、救急、夜警、避難者の支援に活躍した。
消防団員の任務をわきまえて出動した団員自身の最大被害は、
着の身着のままから一部損壊まで100%に近い罹災した集団の活躍の数字だ。
 第7分団部長
ご主人が一生懸命助けようと必死になっていました。
でも、どうすることも出来ませんでした。
「お父さん逃げて、子供たちを頼むよ !!」
と言う声が最後でした。
猛火の中に置き去りにして、私たちは逃げるしかありませんでした。
最後の奥さんの声と、燃え盛る炎、真っ黒な煙、竜巻のような風、
あの光景を一生忘れることはないでしょう。
 この文中の写真は、私が現場で直接撮影したものを掲載しました。