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流鏑馬(やぶさめ)は矢伏射馬、或は、やばせうまとも解し、又、流鏑と書くのは鏑を飛ばすことで、馬を馳せながら鏑を射る意味を文字としたという。
やぶさめの名の最も古く見えるのは、いまから約900年前、御冷泉天皇の御代藤原明衝の新猿楽記である。
当時のやぶさめは明朝警衛にあたった滝口(たきぐち)、随身(ずいしん)などが射手となったもので、公卿の催しとして朝廷の公卿の行事で騎射として平安時代盛んに行なわれていた。
武家としての初めは、平安物語に見える平清盛の伏見稲荷社のやぶさめであろう。
又、信州諏訪社では、既に武家主催で行われていたという。
源氏の道統としての流鏑馬は、清和源氏の始祖、六孫王経基が清和天皇の御教えを受け、これが、源氏の騎射として伝承され、宮中の大儀としての儀式には必ず行なわれたものである。
鎌倉に幕府が開かれてから、武家の儀式として盛んに行なわれ、吾妻鏡には多く見られ、鶴岡八幡宮の流鏑馬が中心であった。
今年も9月16日放生会の日に行なわれている。
この流鏑馬も吉野朝以来衰微したが、徳川期に入り徳川吉宗の命により20世小笠原平兵衛常春により復興され、その後、徳川家の大事には度々行なわれ、この時よりやぶさめの他騎射鋏物が軽装で行なわれるようになった。
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初代小笠原長清は応保2年(1162)甲州に生まれ、父は加賀美二郎遠光、母は和田義盛の娘である。
今日甲府郊外に小笠原村がある。
小笠原姓は高倉帝より賜わったという。
今日小笠原姓を名のる家はすべてこの長清に発している。
26才の時頼朝の糾方師範となったが、この時頼朝は40才であった。
この長清を初代として代々糾方を伝承し、将軍の師範としてやぶさめを初め大的式、百々手式、草鹿式など考証し整備して行なった。
今日の礼法は7世小笠原貞宗常興により整えられたもので、貞宗の墓は京都建仁寺禅居庵にある。
その後、歴代道統を守り、徳川時代に入り17世経直は江戸幕府に招かれ、九段坂下雉子橋際に居を賜わり、その後、御維新まで高家として幕府の弓馬術故実の師範となった。
28代小笠原清務は将軍家定の目代となり、騎戦修練を成立、又、文久2年和宮御降嫁の御用掛ともなっている。
御維新になり明治2年西丸皇居へ勤番となり、明治12年吹上御苑でやぶさめを行なう他、上野公園等でしばしば天覧に供した。
明治13年東京神田に弓馬術礼法小笠原教場を開き一般に公開し、又、学校礼法を課するなど教育界でも大きな足跡を残し、東京女子師範日本女子大学、女子学習院などにて作法を教授した。
大正2年逝去、29代小笠原清明、明治神宮鎮座にあたり、大正9年やぶさめを執行、また鶴岡八幡宮を始め宮崎神宮、日光東照宮、笠間稲荷など多くの神社のやぶさめを復興した。
昭和27年逝去、その後、当主小笠原清信30世が家督を相続し、同時に道統を継承し、明治大学や東京世田谷区の教場で、礼法・弓道・やぶさめの指導と普及に努められた。平成2年逝去。
現在は、当主小笠原清忠31世が家督を相続し、先代に引き続きその指導と普及に当たられている。
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馬場 馬場の長さは2町以上の長馬場である。
現在は幅1杖(7尺3寸)を距でて左側に男埓(おらち)(三尺5寸)右側に女埓(めらち)(2尺8寸)と呼ぶ冊を設け、馬はこの埓に挟まれた疏(とおり)の内を走る。馬場の両端を馬場元・馬場末と呼ぶ。