★ 今週のコラム ★◆ 題名:謹賀新年 守株 NO.56 ◆・ 2011/01/01(Sat) 00:40 昔、百姓がいて、野良仕事(畑を耕していた)をしていた。 そこに野うさぎが出てきて、運悪く切り株に引っかかって転んで、気絶した。百姓は難なくその野うさぎを捕まえる事ができた。 百姓は考えた、何だ、野良仕事の様なきつい目をして働かなくても、切り株で待っておれば野ウサギを捕まえる事ができるではないかと、そう思った百姓はそれ以来切り株の近くに隠れて、野うさぎが切り株に躓くのを待っていた。 と言う話、これは北原白秋が書いた「待ちぼうけ」と言う童謡でも良く知られている昔話ではあるが。昨今の国政を見ると、何だかこの待ちぼうけの歌を思い出す。 さしずめ、百姓は国民で、野うさぎが政権政党の民主党と言う事だろう。そして切り株は諸政策と言うか政治案件と言う事になろうか。 期待した程の成果を挙げられず、ズッコケてばかりの政権に対して切り株を守って待っている国民の辛さ、刹那さは決して癒されたり、満足させられる事はないのだろう。 今年は、全国統一地方選挙のある年でもある。何時までも待っている百姓では、埒が明かない事を知り、新たなる行動に打ってでないと。日本丸やその乗員は沈んでしまうばかりの様な気がする。 一方で政治全体に対する不信感や絶望感が政治離れをきたす事にも懸念を持つのである。求める政治家が居ない現状や口先ばかりの政治家の質の低さは現在の社会状況の反映でもある事を考えると国民全体が「何とかせにゃならん」と発奮して、できる範囲で行動を起こして欲しいと切望するのである。 国政の混迷はさらに深まり、混沌の時代が継続する様な予測がたつ事がなんとも寂しい新年の展望ではあります。 遅ればせ乍ら謹賀新年、昨年はコラムが頓挫した事を衷心より反省しつつ、今年一年がんばるつもりで自己反省もしています。 2011年 元旦 noside |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:生きると言う事 NO.55 ◆・ 2010/04/08(Thu) 19:38 植木鉢に8mm程の青く、中心部が黄色の花が10程の集団で咲いていた。 私が小まめに草むしりするタイプの人間なら、この花達は咲いてこの世を謳歌する事はなかっただろう。 幸か不幸か、私はダラクサでもあり、植木は草との共生の方が良いと主張するタイプであり、草をむしる事無く、そのままにしていたので、花にとっても、私にとってもハッピーな日を迎える事ができたのだろう。 最近、花のWEB図鑑を作成中で、既に450近くの写真をUPしている関係で花に関して少しは語れる知識が身についたと思っている私にとって、その花の名は直ぐに解った。 花の名は忘れな草、花言葉は、私を忘れないで、真実の友情、誠の愛、だそうな。 早速、根ごと掘り起こして、和蘭用の植木鉢に移植して、玄関口に置いて飾った。 この忘れな草を少し小ぶりにして3mm程度の花を咲かせるキュウリグサと言う草が有る。 花も可憐で美しいのだが、殆どこれに気付いている人は無いだろう。 今、あちこちに咲いているのだけど、雑草として、むしり取られ花を咲かせる前に絶命したり、或いは花の存在すら気付かれずに踏みつけられる運命を背負っているのかも知れないと思った。 ゴマ粒程の花だけど、青と白と黄色のコントラストが絶妙で忘れな草に匹敵する程の美しさを兼ね備えながら、人に愛でられる事も無く一生を終えるのだろう。 考えて見れば人間は、人間中心の世界観で、全てを考えているのだが、実は花や、動物、鳥、昆虫、魚と生物にはそれぞれの世界観があるに違いない。 その中で生きるという事に関して、人間ほど、色々と装飾して考えている生物は居ないのだろうと思う。 だが、生きると言う事は生物にとって、それ程装飾する様な事ではなく、ほかの生物と同じようにもっとシンプルな事ではなかろうか。 ちなみに、花の図鑑のURLは http://www.hita.ne.jp/~city/nota/flower/ よろしかったらご覧下さい。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:地デジ化 NO.54 ◆・ 2010/03/17(Wed) 23:18 テレビのアナログから地デジへの切り替え日迄後500日を切ってカウントダウン状態にある。 一方で、この地デシ化は多くの問題を含んでいる。それは、新たな難視聴地域が全国で4900地区程度発生するそうである。都市部でビルの陰などで、場所によっては相当影響を受ける事となりそうだ。 他にもコストが相当かかる事、これは現在エコポイントを利用してテレビの買い替えを薦め、デジタル化を促進しているのだが、不況下にあって思った程進んでないのが実状のようである。コンバータをつけるにしても5000円〜1万近く出費を余儀無くされる。 地デジ化のメリットはチャンネル数が増えるとか、双方向に対応できるとか、それなりに言われているのだが、1日は24時間しか無く、テレビを見る時間も限定的である事を考えると実際のところ、メリットが大きいのは見る側より、寧ろ送る側にある。 例えばNHKの放送受信料の徴収率が相当落ちているが、これからは、受信料を支払わない視聴者に対して映像を提供しないと言う事が可能となる。 又、NHKの論理は受信機1台に対しての受信料であるから、厳格に言えば2台受信機がある場合は2台分徴収する事も可能となるのだ。 此れまで、比較的ルーズな受信料の取立てがよりシビアになる可能性がある。 又、気になる点はデジタル化によるタイムラグの問題である。アナログテレビとデジタルテレビを両方置いて同じ番組をみると同じ画面がアナログテレビから1〜2.3秒遅れてデジタル画面や音声となる。 此れは、デジタル機器の情報処理スピードが上がれば気にならない程度に改善はするのだろうが、何しろ多くの情報をデジタル処理するスピードがまだアナログ見たいにほぼ同時処理できないと言う技術的課題が残ったままと言う事でもある。 一番困るのは正確な時報をデジタルテレビでは知る事が出来ないと言う事だ。 そんなこんなを総合的に考えると、地デシ化はある意味で情報の格差難民を増やす事になる可能性がある。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:世論調査 NO.53 ◆・ 2010/03/09(Tue) 23:26 鳩山政権の世論調査で、支持率が低落傾向にある。マスコミ各社の世論調査がほぼ同じような結果を出しているところを考えると、実際に世論の動向を表していると考えても良いだろう。 で多くの場合の項目に政治と金の問題が取り上げられているのだが、世論調査やアンケートの類は無理やり質問の項目選択を○又は✕で答える形式だから、ある程度の傾向は出るが、必ずしも調査対象者の意思を反映するとは言い切れない側面もある事を考えるべきだろう。 これが、意見を書き込ませる方法だと、具体的な失望というか、不支持の理由が明確になるのだろうが、こうした質問設定方式のアンケートだと、設定以外の理由が選択できない事を考えると、誤差の範囲が広がるといえるだろう。 世論調査で、一番の問題点として、政治と金と言う意見がどこの調査でもトップになっているのだが、果たして国民が不支持をしている最大の原因はそうだろうか?と思うのである。 少なくとも、政権をとる前と取った後を比較して考えると、多分国民の多くは期待したほどの成果も無く、いやに全ての決定にもたついたり、言ってた事の半分も改善できなかったりと、マニュフェストの課題目標に程遠い政策や現時点の状況の進捗度の無さに対して、本当にこの政権は大丈夫かという不安感や失望感の方が大きい気がする。 結局のところ、前政権と同じ事をやったり、バックボーンの利権集団が財界から労組へ変わっただけではないのかとか、霞ヶ関改革や財政改革、あるいは普天間基地移転は解決できるのか?と言う不安要素がやたらに目に付く程、優柔不断で、バラバラの意見で意思決定ができない内閣である事が国民の大方の不安と不満を増大しているのではないかと思えてならない |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:津波 NO.52 ◆・ 2010/03/03(Wed) 00:03 チリでマグニチュウド8.8の大地震が発生、その影響でツナミが日本にも襲来し、太平洋岸の各地で大きな被害を及ぼした。幸いにも、人命に影響はなかったものの漁業被害や、海水による浸水など被害総額は相当になる様である。 それにしても、ツナミの威力たるや凄いものである。考えてみれば、太平洋の海水の全てがエネルギーを溜め込んでチリから日本に到達する訳だから、カロリー計算すればどれだけのカロリーとなるのだろう。 しかも、寄せては返しの繰り返しで、次第に強さを増す訳だから、その威力の凄さは計り知れないものがある。 当初、ツナミ警報では日本襲来時の波の高さは1.2m程度と予測、ハワイ到達時が1mだった事で修正予測で3mとなった訳だが、実際が予測より下回った事は良かったと思うべきなのだろう。 この波の高さの予測は非常に困難で、地形や時間、場所で相当異なるようである。 例えば潮位計の公式記録発表は1.2mが最高であるが、後の実測ではそれ以上の1.5mの波の高さを計測している場所もあったそうだから、数m程度の誤差は良しとすべきだろう。 多くの場合、人々の関心事は波の高さに注目が集まるが、ツナミの真の危険性は、その波が持つエネルギー量であって、僅か20cm程度でも普段の波のエネルギ量の数倍の力があって、人の足元をすくうにのに十分の力があり、人は立っているのが困難で流されるケースが多々あるそうである。 そうしたツナミ警報発令中の海岸でサーフィンをやっている人々がかなりの人数デレビのニュースに映っていたのだが、何を考えているのだか、困った迷惑人で有る。 自然災害を全くバカにした様な行為は己の命はとも角、周りの人の命すら、危険な状態に貶めたり、奪ったりする可能性が高くなる。自己中心的行動は控えて貰いたいものである。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:農家の最低保証制度 NO.51 ◆・ 2010/02/22(Mon) 22:42 世界の人口が68億人を超え、所謂BRICSを始め、東南アジア等の経済成長が続くと、当然、それらの国々の食料需要も経済成長に伴って増大する。 2019年度の穀物需要予測は実質で9%〜17%程度の増加、金額的には31〜46%の高騰と計算されている。 実際には、これに気象変動や災害や投機などが絡んできて高騰幅は50%以上の可能性が高いのだろう。 高騰の原因は需給バランスの結果だと言えるのだが、実際には絶対的穀物不足の影響が大きいと推測され穀物市場は、上昇相場をたどることになるのだろう。 特に人口と経済成長の大きい、中国とインドの影響が大きく作用すると言って良いだろう。中国は50%以上の穀物輸入国になると予想される。 そうした事を前提に、多くの国々では農地の確保を国内のみならず国外に借地農地求めて争奪戦を繰り広げている。 特に、アフリカ、南米、ウクライナ等の優良農地への働きかけは凄いものがあり、これを称してランドラッシュと呼ばれている。 中でも中国は、豊富な資金を活用して、穀物や農地のみならず、全ての資源、金属非金属、レアメタル、燃料などの囲い込みを国家プロゼクトとして展開しており、各分野の価格高騰の中心国となっているといっても良い。 これに比べて日本は国家のビジョンや戦略もなく、常に後手後手に回っている感は否めない、国家戦略室なるものが出来たはずだか、一体どういう活動をしているのか存在感が感じられない状況である。 ショートスパンンの戦略のみでなくロングスパンの戦略をも見据えて、国家としての方針指針を打ち出し、具体的な対応策の策定と実行を早急にやって貰いたいものである。 長期展望に立つと農家の最低保証制度等は食糧難の時代に逆行する政策の様に思う。 農政の失敗は輸入依存、人口減少、農業の衰退、国力低下などのキーワードを考えると大きな付けとなって将来の国民に跳ね返る予感がする。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:リスク産業 NO.50 ◆・ 2010/02/15(Mon) 22:43 世の中には多くのリスクが存在する。それは単なる出会いがしらの危険だけではなく、広い意味では重病にかかる危険性の確立なども含めると、ほぼ全ての分野にリスクが存在すると言って良いだろう。 例えば交通事故に出会う確率10%と言われても、本人にとっては、事故に遭うか遭わないかであり、確率的には遭えば100%であり、遭わなきゃ0%でしか無い。 ところが統計的には10%などの、中途半端な数字が飛び交っていてその確率が60%等となると、極めて危険性があると人々は心理的に追い込まれ、何とかそのリスクを減らしたいと考える。 ここにリスク産業の活躍の場がある。リスクの確率を高く表示し、危険性を増幅して宣伝する事で、多くの人が保険加入させられたり健康食品を買わされる事になる。 最近の交通事故の死亡は1万人前後を推移している。これは自殺者の3万人に比べると1/3でしかない。しかも日本の人口は1億2千万だとすると全体人口に於ける交通事故の死亡率は0.000083%に過ぎない事になる。 もっとも怪我人となると相当確率は上がるのだがそれでも0.000?%程度だろう。 だが確率で言わず何万人とか、何十万人と言えば、人は心理的に相当危険が高いと感じてしまう。ある意味でリスクは感覚的なものに大きく左右される。 つまりリスク産業の手法としては、数字を大きく見せたり、危険性を煽ったり、危険なシーンを目に焼き付けたりと言う手法で売上を伸ばす事になるか、若しくは逆にリスク商品の購入が如何に安心できるかと言う事の強調となる。 最近、こうし手法がテレビコマーシャルで多い様に感じる。保険や健康食品、クスリetc、 だが、冷静に考えると、案外あらゆる事のリスクは思っている以上に可能性としては低い様な気がする。疾病保険にしても、還暦を過ぎて入院などと言う病気は、無いし、敢えてあげるならスポーツで右手の薬指を踏まれて、筋が切れそれを縫合した時5日入院した位である。 必要以上に危険性を煽られ、余計なサプリメントや保険などのリスク関連産業に貢献している人が増加している傾向にあると感じる。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:フードデザート(食の砂漠化) NO.49 ◆・ 2010/02/08(Mon) 22:44 日田市の商店街はシャッター通りと化している。又、各町内にあった八百屋、魚屋、雑貨屋と小売店舗も店主の老齢化や採算割れなどから閉店して、廃業した店が多い。 かって存在した個人スーパーも軒並み倒産や廃業で店そのものの数が激減している事に気付く。 確かに形態の違うコンビニが増加しているものの、その立地は極めてシビアに計算されたもので、過疎地や限界集落地に建つべくも無い。 一方、商業施設の店舗としては街中には、幾つかの大型店舗を残すのみで、多くの商業施設は郊外型となり、街中より数キロ離れた場所に店を構えている。 街中の人通りは激減し、其処に暮らす人々も老齢化してきている。 老齢化した住民にとって店舗の減少化は毎日の食事の材料の買出しに不便をきたしている。とりわけ、車の運転すらおぼつかなく、足腰に不安があったり、持病を抱えた老齢者にとっては、食材の確保は、ある意味で生きる権利の喪失ともなる。 過疎地や限界集落の問題は単に、生活環境の破壊だけではなく、生きる為の食料確保の困難さをも意味するのである。 商店の機能は単に食材の提供のみでは無く、そこに集まる人々のコミュニティ機能や、緊急時の食料などの物資の備蓄機能等の役割をも備えている。 商店街の退廃は、人が生活する上での基本的インフラの喪失でもある事を意味する。 近い将来こうしたフードデザート(食の砂漠化)がいたる所で発生する懸念がある。 町づくりの基本が市民が幸福に明るく楽しく生活できる環境整備だとするなら、最低限の必要条件としてフードデザートが発生しないような町づくりが必要だろう。 |
★ 今週のコラム ★◆ 題名:大相撲問題 NO.48 ◆・ 2010/02/01(Mon) 23:53 今日の理事選挙で大方の予想に反して貴乃花が理事に当選した。 聞くところによると、今までは選挙とは名ばかりで、検閲が入ったり、締め付けがあったり、誤字のチェックとかで投票用紙を見られたりが普通に行なわれていたと聞く。 そのせいか、票読み通りの結果だったり、候補者が定員数と同じで無投票で決まったりと、非常に非民主的出、選挙とは名ばかりの儀式だった感がある。 今回貴乃花の立候補は、そうした既成概念というよりは角界の常識を覆して、一門を離脱しての強行立候補であり、選挙のやり方も、監督官庁の文部教育省の強い指導で、一般の選挙と同じように投票の自由が認められたらしい。 その結果、ある意味で相撲協会の関係筋の読みと異なった展開となり、貴乃花理事が誕生したと言う事だそうな。 理事就任インタビューで、貴乃花の話を聞く限りに於いては、非常にほかの理事に気を使っているし、何よりも言を選んで、とも角余計な言葉は発言しないぞと言う慎重で言葉を選んでいる様子が明らかに見て取れて改革の具体案や意気込みが聞かれなかった事は残念でもある。 果たして、角界の改革がスムーズに進むかと言うと若干の疑問も残るが今の日本は既存の組織体制では、成立しない状況に置かれていて、どの分野でも何らかの改革を必要としているのは事実だろう。 そして、それらの改革には、多くの痛みが必要であり、場合によってはその痛みを自分自身が負うハメになる事をも覚悟して貫く必要があるのだろう。 只、その結果は早急に出せれば良いのだが、何しろ、はっきりとした指針がある訳でも無く、場合によっては失敗すら覚悟でやりぬかねばならない所に改革の困難さがある。 朝青龍の暴行事件といい、新理事体制が解決しなければならない事は沢山ある。どう変わるか、どう変われるかが問われる事になる。 |